教えない交流会が、自然に続く構造

売れない行動を止め、
前提条件と立ち位置を修正し、
売上を取り直すための設計書。

交流会は、
何かを教える場として設計されることが多い。
知識、経験、成功例、考え方。
参加者は、
学ぶ側として集められる。

しかし近年、
特定の内容を教えないにもかかわらず、
自然に続いている交流会が観測されている。

ここで起きているのは、
教育の否定ではない。
場における役割の再配置である。

教える交流会では、
暗黙の上下関係が生まれる。
教える人と、
教わる人。
この関係は分かりやすい一方で、
参加者に役割を固定させる。

教わる側は、
理解する責任を負い、
成果を示そうとする。
教える側は、
価値を提供し続ける責任を負う。

この構造では、
場が成立するたびに
負荷が積み重なる。

一方で、
教えない交流会では、
役割が発生しにくい。
誰かが正解を持たず、
まとめも行われない。
知識が共有されても、
教訓には変換されない。

このとき、
参加者は
「できる人」や
「学ぶ人」になる必要がない。
ただ、
そこにいる人として扱われる。

重要なのは、
教えないことが
放任を意味しない点である。
教えない交流会には、
理解しなくていい、
変わらなくていい

という前提が置かれている。

この前提があると、
参加者は
自分を整えるために
場を使える。
証明も、
成果も、
進捗も求められない。

結果として、
場に残る理由が
外部に作られない。
「学べたから続ける」でもなく、
「役に立ったから来る」でもない。

ただ、
消耗しなかったという感覚だけが
静かに残る。

教えない交流会が自然に続くのは、
人を育てているからではない。
人を役割から解放している
という構造があるからである。

この構造では、
続けるための努力が
必要ない。
続けなければならない理由も
生まれない。

教えない交流会は、
成果を生まない。
だが、
消耗も生まない。

そのため、
特別な意志や目的がなくても、
自然に、
同じ場に戻る人が現れる。

教えない交流会が続くのは、
設計が優れているからではない。
判断と成長を
場に背負わせていない

という一点に
理由があると観測できる。