交流会は、
価値を提供するものだと考えられてきた。
学び、出会い、成果、体験。
それらを分かりやすく提示することで、
人は参加を判断する。
このとき、
交流会は「コンテンツ」になる。
内容があり、
分かりやすく、
説明可能で、
再現できるものとして扱われる。
しかし近年、
交流会がコンテンツ化されていないにもかかわらず、
続いている場が観測されている。
ここで起きているのは、
集客の巧拙ではない。
交流会に期待される役割そのものの変化である。
コンテンツとして設計された交流会では、
参加者は無意識に
受け手の立場に置かれる。
何を得るか、
どれくらい価値があったか、
元が取れたか。
この構造では、
場にいる間も
評価と判断が止まらない。
結果として、
満足度は測れるが、
消耗は残りやすい。
一方で、
交流会がコンテンツにならない場では、
価値が定義されていない。
得るものも、
持ち帰るものも、
最初から設定されていない。
このとき、
参加者は消費者ではなくなる。
同時に、
提供者になる必要もなくなる。
重要なのは、
何も与えないことが
無価値を意味しない点である。
価値を提示しないことで、
判断の負荷が取り除かれている。
交流会がコンテンツになると、
成功と失敗が生まれる。
盛り上がったか、
学びがあったか、
次につながったか。
コンテンツにならない交流会では、
これらの基準が存在しない。
何も起きなくても、
成立として扱われる。
この扱いが、
場を強くする。
強さとは、
拡張性や影響力ではない。
消耗せずに続くことである。
コンテンツは、
消費される。
評価され、
比較され、
やがて新しさを失う。
一方で、
コンテンツにならない交流会は、
消費の対象にならない。
説明されず、
まとめられず、
再現も求められない。
だからこそ、
時間が経っても
劣化しにくい。
交流会が強くなるのは、
魅力的だからではない。
判断を引き受けさせない構造を
持っているからだと観測できる。
交流会がコンテンツにならない方が強いのは、
価値がないからではない。
価値を測らせない位置に
立っているからである。