「霧で未来が見えない交流会」のような、
結論を出さず、目的も明示しない場が
成立している。
この現象は、
運営の巧さやコンセプトの新しさとして
説明されやすい。
しかし、ここで観測できるのは
場づくりの技術ではない。
人が置かれている判断環境の変化である。
現在、多くの場は
何らかの結果を求める。
学び、成果、人脈、次の行動。
参加者は、
「来た理由」と「持ち帰る価値」を
無意識に要求される。
この構造では、
場にいる間も
判断は止まらない。
むしろ加速する。
一方で、
霧で未来が見えない交流会では
判断が回収されない。
正解を出さず、
行動も促さず、
意味づけも行われない。
このとき起きているのは、
参加者の消極性ではない。
判断を一時的に保留できる状態が
場として許可されている。
不確実性が高まるほど、
人は「決め続けること」に疲弊する。
決めなくていい時間が
ほとんど残っていないからである。
霧で未来が見えない交流会は、
新しい価値を提供しているのではない。
欠けていた状態を、
そのまま戻している。
重要なのは、
何も起きないことが
失敗とみなされない点である。
盛り上がらなくても、
沈黙が続いても、
成立していると扱われる。
この扱いが、
場の緊張を下げる。
結果として、
参加者は
「何かしなければならない人」
ではなく、
「ただそこにいる人」に戻る。
霧で未来が見えない交流会が成立するのは、
人が変わったからではない。
判断を急がせる場が増えすぎた反動として、
判断を止められる場が必要になった
という構造がある。
そのため、
霧で未来が見えない交流会は
説明されなくても成立する。
価値を示さなくても残る。
参加後に
「また来たい」と感じられる。
これは、
満足度の高さではなく、
消耗しなかったという感覚に
近い。
霧で未来が見えない交流会の成立は、
特別な場の成功ではない。
判断を休ませる余地が、
ようやく場として現れた
という観測である。
