結論を出さない交流会に参加した人が、
「また来たい」と感じる現象が起きている。
この感覚は、
学びが多かったからでも、
人脈が広がったからでもない。
むしろ、
何も得ていないはずなのに残る違和感に近い。
ここで観測できるのは、
交流会の満足度ではない。
判断が回収されなかったことによる負荷の軽減である。
多くの交流会では、
参加者は無意識に役割を背負う。
話すべきこと、
得るべきもの、
示すべき価値。
場にいる間も、
判断は止まらない。
一方で、
結論を出さない交流会では、
判断が途中で止まる。
話がまとまらなくてもよく、
次の行動が決まらなくても成立する。
このとき起きているのは、
場の緩さではない。
判断を急がされない状態が、
場として許可されているという変化である。
不確実性が高い環境では、
人は決断そのものに疲れる。
正しいかどうかより、
決め続けること自体が負荷になる。
結論を出さない交流会は、
新しい価値を与えているわけではない。
判断を止めても問題にならない時間を
そのまま差し出している。
その結果、
参加者は
「何かを持ち帰る人」ではなく、
「消耗しなかった人」として場を離れる。
この感覚は、
後から効いてくる。
家に帰ってから、
仕事に戻ってから、
なぜか余白が残っていることに気づく。
また来たくなる理由は、
楽しかったからではない。
役に立ったからでもない。
判断を一度、休ませることができた
という身体的な実感である。
結論を出さない交流会が成立するのは、
参加者が受け身だからではない。
判断を止めることが、
今の環境ではほとんど許されていないからである。
だからこそ、
何も起きない場が
記憶に残る。
また来たいと感じるのは、
前向きな期待ではなく、
もう一度、消耗しない状態に戻れる
という感覚に近い。
この交流会は、
答えを与えない。
代わりに、
判断を持ち帰らなくていい時間を残す。
そのこと自体が、
次に足を運ばせる理由になっている。