何も学ばず、
何の成果も持ち帰らず、
次の行動も決めない。
それにもかかわらず、
あとから強く記憶に残る場がある。
この現象は、
体験価値の高さや演出の巧さとして
説明されやすい。
しかし、ここで観測できるのは
満足度の問題ではない。
判断が行われなかったこと自体が、
記憶として残っている。
多くの場では、
参加者は無意識に処理を行う。
理解する、
評価する、
整理する、
使えるかどうかを判断する。
この処理は、
場を離れる前に完了させられる。
そのため、
持ち帰るものが明確になる代わりに、
場の記憶は早く閉じられる。
一方で、
何も持ち帰らない場では、
処理が完了しない。
話は途中で終わり、
意味づけもされず、
判断は宙に浮いたまま残る。
この「未処理」の状態が、
記憶を保持する。
人は、
理解したことよりも、
理解しきれなかった状態を
長く覚えている。
重要なのは、
未処理であることが
不快にならない点である。
場として、
「分からないままでいい」
「決めなくていい」
という扱いがなされている。
この扱いがあるとき、
未処理は負担にならない。
むしろ、
思考や感覚が
自然に続いていく余地になる。
何も持ち帰らない場が
記憶に残るのは、
新しい情報を得たからではない。
情報を処理しなくてよかった
という感覚が、
身体に残るからである。
この感覚は、
後になってから気づく。
別の場で判断を迫られたとき、
ふと、あの場の静けさを思い出す。
そこで、
自分が消耗していなかったことに
気づく。
記憶に残っているのは、
出来事ではない。
状態である。
何も持ち帰らない場は、
価値を与えない。
代わりに、
価値を処理しなくていい時間を残す。
その時間は、
すぐに使えない。
説明もできない。
だが、
判断を急がない感覚として、
長く残る。
だからこそ、
何も持ち帰らない場は、
後から何度も思い出される。
それは、
何かを得た記憶ではなく、
失われなかった感覚の記憶
として残っている。